追分節の発祥地で追分節保存会により歌い継がれて半世紀。追分節(追分馬子唄・信濃追分)が令和5年6月27日、軽井沢町初の無形民俗文化財に指定された。
追分区では「追分節無形民俗文化財指定を祝う会」を11月19日、追分公民館で開き、保存会を中心に約70人が出席した。来賓では軽井沢町の土屋三千夫町長、町生涯学習課の岩井和成課長、町文化財保護審議会の大久保 保会長、西部小学校の田野公章校長、追分宿郷土館の竹内純子館長と伊藤京子学芸員、NHK長野ビデオクラブの千葉操会長の7人が出席した。
内堀次雄区長は主催者を代表する挨拶で「追分節の無形民俗文化財指定は、区民にとって大変な誇りで今後の励みにもなる。平成元年に浅間神社で『全国追分節まつり』を開いた折、江差追分の第一人者・青坂満(みつる)氏が信越放送のインタビューに応え、江差追分の発祥地が信濃追分との記録がある」という発言を聞き「民謡の王様と云われている江差追分から、追分が追分節の発祥地に認められたことに誇りを持った」と振り返り「追分節はこれまで時代時代の諸先輩方が大切に守ってきた。保存会の伝承普及活動の貴重な記録をDVDに制作した。これを追分の財産、区民の家宝にしたい」と、出来たばかりのDVDを手に嬉しそうに報告した。
土屋町長は「追分節が晴れのこの日を迎えられたのは地域の弛まぬ努力の結果である。本年6月27日の教育委員会で、追分節と熊野皇大神社太々神楽を町初の無形民俗文化財に指定した。追分節は軽井沢三宿の馬子たちの仕事唄として生まれ、海上を渡り全国へと伝播した。その発祥地で伝承され、百を超える歌詞も残っている。追分節は無形民俗文化財として申し分のない街の宝で、委員満場一致で決定した、と聞いている。追分節も時代が変わると共に歌い手が減少し、大きな危機もあった。その時、文化の灯を絶やしてはならないと奮闘してきたのが保存会で、今も追分節が伝えられている理由である。日本全国で貴重な文化財の担い手不足が問題なっている。追分節は保存会が伝承普及を担い、町として感謝している。町は保存会の取り組みを引き続き支援し、貴重な文化財の継承に努めたい」と励まし、保存会を勇気づけた。
保存会の久能カヨ子会長は「グループを私の姉や主人、公民館前の関みつじさんの4人で立ち上げて45年。つねに前向きな姿勢で、追分節に誇りを持って練習に励んできた。農業の傍ら、とても大変でした。家族の協力もあり頑張ってきた。次世代の子供の育成では、追分宿郷土館職員の並々ならぬ協力もあった。子供が成人し保存会に戻って活躍してほしい、と願っている。今日まで活動できたのは、無理をしなで細く長くやってきたのが良かった」と活動を振り返り「(無形民俗文化財指定は)本当にびっくりです。夢にも思わなかったことです。重責を感じます」との真摯な挨拶に、参加者は深い感銘を受けた。(写真は土屋町長から「無形民俗文化財指定通知書」を受け取る久能会長)
大久保会長は経緯に触れ「追分節と熊野皇大神社太々神楽の無形民俗文化財指定は、町文化財保護審議会で審議員全員の賛同を得た」と報告した。「追分節は歴史的にみると継承の危機に二回見舞われた。一つは明治5年の奉公人等解放令で、失業対策が無かったので行き場のない女性たちが残された。もう一つは明治26年の国鉄の信越線開通で、人通りが途絶えて町が荒廃した」と指摘し「追分節は油屋の小川誠一郎さんが奉公人の『おのぶさん』から口承で教わり、奥さんの『およしさん』と共に保存継承に努められ、後継者の久能さんに引き継がれた」と認識している。「追分節の歌声には圧倒される。素朴で情緒も豊か。保存会により末永く歌い継がれることを願っている」と感想を述べた。追分に現存する「桝形の茶屋―つがるや」は、建物を復元して文化財に指定する予定で、浅間神社の「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」の大きな自然石の芭蕉句碑も、文化財級の保存価値が十分あると示唆していた。
式典は次第通り滞りなく終わり、追分節保存会により追分馬子唄と信濃追分が披露された。広い会場は終始華やいだ雰囲気に包まれた。(S)